伊能忠敬の測天

 江戸時代に測天量地という言葉があった。測天は天文観測で今日の天測にあたり、量地は測地あるいは大地測量にあたる。伊能忠敬は日食や惑星食による経度測定も試みたが、彼の測天はほとんど恒星による緯度決定である。後代には三角測量に変わるが、忠敬の採用した量地は道線法と呼ばれるもので、今日のトラバース測量の一種である。そのような簡便な方法にもかかわらず、彼の量地が成功した原因の最たるものは、全国で1,200点に及んだ地点の緯度を、測天で決めたことであった。

 今日では電子時計があり、多数の星の赤緯も星表として完備されているから、天文緯度を決めることはきわめてやさしい。忠敬は垂揺球儀という時計を使ったが、精度は高くなかった。そこで南中時の星の高度(これを方中視高度と呼んだ)を測る。これと江戸深川黒江町の原点における同じ星の南中高度との差から緯度を計算することで、時刻と赤緯が不正確という問題を同時に解決した。

 いま、ある星の南中高度Boの原点でho,緯度Bの地点でhとすれば、赤緯に関係する項が消えて、B=(ho-h)+Boという彼の計算式が得られる。

 黒江町の原点は忠敬の自宅である。測量から帰って滞在中は努めて多くの星を測り、視高度の恒星表をつくった。その星数は初期には350星ほどであったが、後には500星を超えた。測定には自宅、野外ともに半径三尺八寸(115cm)の象限儀を使用した。高度の測定精度は30″の程度であったという。

LinkIcon(社)日本測量協会発刊 月刊「測量」より抜粋